人間失脚

恥の多い生涯を送っています

よくわからないもの

気にしないでポエムだから

 

 

きょうは森美術館六本木クロッシング(と、ボストン美術館展)見学。課題で

 

 

どうもわたしは昔から、現代美術を穿った目でしか見られないというか、

すきなものはすきだしかっこいいものはかっこいいと思うんだけど、

それは中二病的な趣味の発露なんじゃないだろうかとシニカルに見ているじぶんもいる

 

そういう感情を抱くのは大抵なにかメッセージ性の強い作品だったりする

 

わたしは根本的にアートとか芸術っていうものは鑑賞者が「美しい」とか「すき」って思えばそれで充分で、

個々の作品に作家の意図があろうがなかろうが、意味付けは鑑賞者が個人的に行う作業なんじゃないかなぁ、と

美学とかそういう不定形なものを勉強するのは苦手だけど、それらの勉強は自分なりの意味付け作業のための参考知識を取り入れる場かなと思っている

 

まぁ何がいいたいかというと、芸術ってのは「美」っていう観念が一番優先されるべきだと思うんだよね

だからコンセプトアートというか……キャプションを読まないと何がしたいのか全くわからないやつもそうだけど、

これ見よがしにホットな問題を取り入れてるのを見ると、

なんかそれって「今の世の中マジ腐ってる」(笑)みたいな日本語ラップを聴かされてるときと同じような気分になる

歳とったとき枕に顔をうずめてばたばたしたくなっちゃうんじゃないかなこの人…みたいな

 

それが日本語ラップと違うのは、大量生産・消費されていく(ようになってしまった)J-POPみたいなものとは違い、基本的に高尚なものとして取り扱われる「アート」っていう形態をとっていることなんだよね

まぁ「じゃあアートじゃなきゃなんなの」って言われたら、それは広い意味での「アート」としか言えないような作品なんだけれども。スタイルが多様化しすぎている

なかには「もうそれドキュメンタリーでいいだろ」ってわたしなんかは思ってしまうようなものもあるんだけど、逆にいえばドキュメンタリーはアートではないのか?アートと呼べない理由はどこにあるのか?みたいな問題に陥ってしまう

 

 

現代美術系の作品展はそんなことをずっと考えて袋小路に陥りながら鑑賞しています

 

まぁわたしなんかは門外漢だからそんな勝手でありがちな違和感しか抱けないんだけれども、

現代美術について真面目に勉強してる友人と見に行ったりなんかすると、

「よくわかんないんだけど、気持ち悪い」という言葉に集約される、わたしよりも複雑で生理的な違和感を抱くようで、

あーでもそういうふうに批判的に研究される作品っていうものは幸せだなぁ、わたしは斜め上からあーだこーだ言うことしか出来ないよと

彼女の観念的ながら繊細な違和感に感心するものです

 

 

研究は常に批判的であれとは思う

とにかくはっきりしていることは、そういう価値がしっかりと定まっていないものを

手放しにありがたがって批判的な視点を忘れることがわたしは嫌いということだ

それは鑑賞者にしろ、製作者にしろ

自戒の念も含めてね

 

久しぶりにこんなにダラダラと好き勝手なこと言ったなぁ

レポート書いてきます